トーク全体の要約はマル激のホームページにあるので、それを参照されたい。http://www.videonews.com/charged/on-demand/561570/002329.php
本多氏の言わんとするところを消化するために、ごく一部分だが、文字に起こしてみた。
ただし、あくまで意味を把握するためのだいたいのものであり、「である体」への変換や文の整形、補足等を行っている。より正確な内容を知りたい方はトークを直接お聞きいただきたい。
以下、トーク前半の 39分10秒あたり~50分20秒あたり の聴き取りであるが、真宗的な考え方が充分に表れていると思う。
(“()”は意味が通るように筆者が補足した部分、あるいは、話の流れからそれた部分であることを示す。)
------ 以下、聴き取り内容 -------
どうしたらいいのかという問いが解体されたところに、道が開けるのだ。 愚かだ,救いようがないんだ,ということに頷けたら、道が開ける。 本来の在り方を縛っている意識構造 ――自力作善や自我という言葉に代表される―― が(間)違っていることに気が付くということで、真実に触れるのだ。
((仏教では)行為ではなく存在を出発点にする。) (そのように真実に触れたときでも、)「分からないからどうしたらいいのか」と問う主体が残っているが、(そう問うこと自体は問題なく)動機は何でもいい。 (僕(=本多氏)の場合も)「このままではどうしようもないじゃないか,どうしようもないじゃないか」と(どんどん問い)をぶつけていく。 「困っている人や格差の問題等を,どうしたらよいのか分からないじゃないか,黙ってみていろとでも言うのか」(と、問いをぶつけていくのだ。) そういう発想をとことん大事にしていくと,全く相手にしていなかった(教えの)言葉が、聞こえてきたり腑に落ちたりする。それは意識構造よりもっと深いところ(で起こっており)、“不可思議”としか言いようがないが、そういうことが(実際に)あるのだ。 (このまえ安富歩氏がマル激に出演したそうだが、彼の言葉だと(多分)“説明不可能”という言い方をしたと思う。) 私たちはそれを解明したくなるが(できない)。そこは親鸞の教えを聴いていてイライラするところである。 しかし,実際に(そういうことが起こる。)僕(=本多氏)の中にもそういうことが起こった。 「凡夫だ,お前は愚かだぞ」と言われたら、(かえって)生きる力が湧いてくる。 考えられないことだろうが、そうなのだ. これはマインドコントロールとは違う。道理によって救われるのだ。
(そこは気を付けないといけない。洗脳で感動することもある。宗教の危ないことろでもある。) (仏教で)“仏智”・“光”という言葉で表されるもの、それに触れて頷くのである。
(このトークの)はじめに話した通り,現実から問われて「間に合わない」というところに、初めて教えが聞こえてくる。 『歎異抄』の言い方で言えば、「念仏を唱えようという気持ちが“起こる”ときに救われている」のであって、“起こす”のではない. (本(『今を生きる親鸞』)にも書いたが、) 日テレで放送された17歳の女の子の例: 津波でお父さんとお母さんを失った。しかし、「お父さんお母さんが働いていたイチゴ農園で働いきたい」と言って少女が明るい顔をした瞬間があった。 これは、生きていてほしいという外から呼びかけが響いている(としか考えられない)。 (本多氏の宗教感覚からいえば、)お父さん・お母さんからが,彼女に無言のままに呼びかけて立ち上がらしたと思う。 だから、「頑張ろう日本」とか、そういうことを考えた(思い浮かべた)のでもなんでもなくて, 「ここに生きているままに,そのまんま足を付けて生きていこう」という(思い)、 (仏教的に言うと)外から呼びかけた未来 ――“純粋未来”と言うが―― そういう何かに呼びかけに導かれて動いたとしか考えられない。 このときにはもう(彼女の心は)“解体”している。 (ただし)“解体”しているけれども、彼女が何も動じない人間になったかというと、そうではない。 お父さんお母さんが生きているクラスの子が(お父さんお母さんについて)しゃべっているのを見れば泣くだろうし、やっぱり不安は何も解決していない. しかしながら、そこに引き受けていく力が出てくるということは、 人間の意識構造の深いところにあるものが顔を出してくるということが起こっているとしか言いようがない。 そういう形でしか、現代的な表現ができない。 もう一度(話しの初めに)戻ると、 仏教が苦悩する人間(人間の苦悩)のなかから生まれたということは、いたずらに苦悩しているのではない。苦悩するということは、何かこれは(自分の願いとは)違うんだと思っている、それを超えて行きたいんだ、受け止めて超えて行きたいんだ、(と思っているのだ)。
ある問題が解決しても次々と問題が出てくるから、人間は目の前に起こっていることと格闘するしかない。(次々起こってくる個々の現実的問題は)地震・津波だけではない。 父親が亡くなったという人にとっては,それは津波と同じ現象だ。 そういう思いを抱えた人が、どこで、苦悩の大地に足を付けたまま歩いて行けるのだろうか?(苦悩の大地を変えたいという発想ではなく。) 彼女の例だと、自我の解決とは,お父さんとお母さんが助かって、もとどおりに家が建築されるということだが、そうならないのが道理である。(にもかかわらず、)そこに生きていく道があると仏教は言う。 逆に、道理に頷けない自力作善の人間のありかたをとことん批判していく(のが,仏教である)。 そういうことで(人間は)立ち上がっていく. (ひどい言い方のようだが)人間に生まれてきた悲しみというのは受け止められないということだ。 (ここで、動植物はそうではないという例が挙げられる。) 人間だけが受け止められない。だけども、人間だけがそれを翻して生きていく道を知っている. あなたが生まれてきたのは本願に出会うためだとこういう宗教臭いことを言われると分からなくなってしまうが、 やはり,自分の意識転換がなければならない. だから,どうしたらいいのかという問いを退けるのではなくて,どうしたらいいのかという問いをとことん大事にしていくのだ。 それは教えとの格闘である。 僕は、格闘した末に無条件降伏したところがある。(この無条件降伏を真宗では“信心”と いう。) 何かを信じてそれを握りしめて(把握して)前に進んで行くのではなくて,この自分が愚かだなと分かった時に立ち上がって行けるのだ。 こういうものが、もし3.11のなかに、一人一人のなかに出てきたならば,どうなるだろうか? (そういうことを考えてみたい。)
【修正履歴】
2112年4月1日、
「ある問題が解決しても次々と問題が出てくるから、人間は目の前に起こっていることと格闘するしかない・・・」の段落にあった次の文章は、前後と意味をつなげることが難しかったので削除した:
「(ここで,本多氏が,一般の信徒さんたちに向かってよく言っている話が例としてひかれる.) (僕はいつも)「誰もが幸せになりたいよね」と信徒さんたちに言っている。人は幸せになりたいという思いがある.日々,自分が思っていることがかなうとよいと思っている。」