2011年7月27日水曜日

省エネだけで原子力発電を無くせるか?(超ザックリとした見積り)

東日本大震災と福島第一原子力発電所の事故は、ついに、全国の原子力発電所を止めるかどうか、という大問題にまで発展してしまった。
原子力発電所のエネルギー供給は、日本における発電量の3割を占めると言われている。
国内の総エネルギー供給(石油・石炭・天然ガス・ウラン・自然エネルギーの合計)に占めるの割合でみると、原子力発電は全体の1割強である。

こんなに大きな割合を占める原発の供給電力量をゼロにしても大丈夫なのだろうか?
ということで、ザックリと見積もってみた。

まず、民生部門(業務部門≒商用ビル、および家庭部門=住宅)のエネルギー消費を、
ゼロエネルギー建築(または低エネルギー建築)へリプレイスすることによって削減することを考えてみよう。
民生部門におけるエネルギー消費は、日本の最終エネルギー需要全体の約3割を占める。(→ 図1)


このうちの約半分(つまり総エネルギーの約15%)が、冷暖房と給湯に費やされている。(→ 図2)
ゼロエネルギー建築(や低エネルギー建築)は、冷暖房エネルギーの大部分と給湯エネルギーのかなりの割合を削減することができる。
ここでは最大限の可能性を議論しているので、冷暖房と給湯のエネルギーをゼロにできると見積もる。

かくして、建築的対応によって最大で15%を減らすことが可能。

(実際、近年では、資材製造・建設・解体時に消費するエネルギーを含めたライフサイクル・エネルギーをゼロにできる住宅が販売されている。ただし、太陽電池の発電量が冷暖房エネルギーを相殺するとみるか、電気製品のエネルギー消費を相殺するとみるかは、議論の余地あり。)

これは、だいたい、原子力発電が、日本の総エネルギー供給(電力に限らない)に占める割合と同程度である。(→【脚注1】)



毎年の新築率は全ストックの3%程度なので、ずべて建て替わるまで30年かかる計算だが、新築率を5%まで上げれば、20年間で建て替え終える。(→【脚注2】)
新築以外にも、省エネリフォーム(改築)という方法もある。(が、その場合のエネルギー削減量は新築よりも落ちると思われる。)

(↑ 図1)





図2 2007年度における業務部門(左)および家庭部門(右)のエネルギー用途別内訳
(『エネルギー白書2009』から作成)
一方、冷暖房・給湯以外、つまり、アプライアンス(家電・OA等)や照明については、

今年7月からの電力制限令を実行して問題なければ、15%削減可能としてもよさそう。
15%はピーク電力の削減量だが、【脚注3】に述べる理由によって、
年間の積算電力量(つまりエネルギー)も15%削減できるとする。
(かなり乱暴だが。)

つまり、
3割×15%=4.5%


以上は民生部門についての見積りだが、電力制限令は産業部門にも課されている。

電力消費に占める産業部門の割合は全体の約4割だから、上述の理屈で、その15%
つまり全体の6%を削減できる。


これらをすべて合計すると(輸送部門での削減を入れないでも)、

25%程度のエネルギーの削減が可能であることになる。
(20年~30年かかる)。

原発のエネルギー供給をゼロにして、さらにお釣りがくる。
このお釣りは化石燃料利用の削減に使われるのだが、もちろんそれだけですべてを削減することはできない。
化石燃料は早晩高騰することは目に見えている。
また、CO2削減の観点からも削減が望まれるが、それを代替するには太陽光や風力などの自然エネルギーを増やすしかない。

なお、依然として、費用を誰がどう負担するかという問題は残っている。



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【脚注1】
15%という値は、
エネルギー転換の際のロス、つまり、発送電の際のロスや、燃料・ガスの精製の際のエネルギー損失を入れて考えるのかどうか、また同じことだが一次エネルギーに換算するのかどうか、
によってかなり変わってきてしまうのだが、
ここでは、ザックリとした議論を目指しているため、気にしないことにする。
(実際、【脚注2】の仮定による誤差のほうが大きい。)
なお、図3と図4を参照されたい。



(↑ 図3: 日本のエネルギー需給バランス
出典: 資源エネルギー庁『総合エネルギー統計(2004年度)』、経済産業省『エネルギー白書2007』、
字を大きくしてある


(↑図4: エネルギー転換ロスを含めた場合の部門別消費割合)


【脚注2】
省エネという21世紀のビジョンに対して新築で問題を解決しようとする考え方には20世紀的なところがある。しかし、ここでは削減可能量の見積りなので、ご容赦いただきたい。
なお、大野秀敏他『シュリンキング・ニッポン』(鹿島出版会、2008年)を参考にされたい。

【脚注3】
電力制限令は、ピーク電力の削減に関するもので、厳密には積算電力量の削減ではない。揚水発電や蓄 電池導入、あるいは勤務時間のシフトなどは、積算電力量の削減にはつながらない。しかし、ブレーカーの容量を落としたり、機器をエネルギー効率の高いもの に買い換えた場合は、積算電力量も減ることになる。
(以下の図5・図6を参照されたい)。

(↑図5 ピークと積算電力量との関係 
出典: 緊急節電HP by 東京大学生産技術研究所 岩船研究室)

(↑図6 夏季ピーク電力の部門別割合(東電管内)。
全国の年間積算電力量の部門別割合と少しだけ違う。)


(初稿:2011年7月27日)
(7月30日修正: タイトル、図3)
(8月31日修正: 【脚注1】のあとに新たな【脚注2】を追加。(もとの【脚注2】は【脚注3】に変更)。また、冷暖房と給湯のエネルギーをゼロにできるとする理由を説明した。そのほか関連する箇所を修正。)

エネルギーとジェンダー

今日、ある女性芸術家にコンクリート打ち放し建築の悪口を言ってみた。

コンクリートは、その力強さと可塑性(曲面や複雑形状を実現できること)から、芸術表現に用いられてきた。(ル=コルブュジエ、オスカー=ニーマイヤー、ルイス=カーン、日本では、安藤忠雄、丹下健三ほか。)

しかし、エネルギー消費の観点からは、製造時にふんだんにエネルギーを消費するうえに、完成してからも、その巨大な熱容量が冷暖房負荷を増やす。ヒートアイランドの一原因でもある。 (もちろん熱量量はもろ刃の剣だ。きちんと設計すれば蓄熱・蓄冷を実現的できる。)(注1)

なんでこうなってしまったのか? それに対する、彼女の答えは、シンプルなものだった。

「それは男のロマンだからだ。」

ジェンダー論はあまり好きではないのだが、当たっている。

そもそも、バウハウスのときから、モダニズムは温熱環境には鈍感なところがあった。冬のバウハウスはものすごく寒かったのだ。

日本の場合、事情がやや異なる。
安藤氏や丹下氏の建築は、西洋のモダニズムと日本の伝統様式との見事な融合とみなされているのだが、
視覚的・形式的にはそうでも、自然の微気候を巧みに利用する本来の日本の伝統とは、中身がまるで違うのだ。

「絶対安心な原発もあるんですけどね。」
安藤氏は石原都知事との対談でそう言った。
(東京MXTV「東京の窓から」、7月16日)。
3.11以後に大きく方向転換をしたということだが、モダニズム、そして「男のロマン」からの脱却は難しそうだ。

だが、これは安藤氏に限ったことではない。
鉄腕アトムに始まって、原子力、いや先端科学技術のかなりの部分が「男のロマン」であったのだろう。

原子力導入の立役者である中曽根康弘は、最近になって「太陽エネルギー」国家への政策転換を明言した。
だが、その転換に不可欠な「省エネルギー」や「ライフスタイルの見直し」までは踏み込んでいない。

「太陽エネルギー」も、多分に「男のロマン」ではないだろうか。

世の中の人間の半分、そして(研究者を含む)フルタイムワーカーの圧倒的多数が男性であることを考えると、落としどころはこのへんなのだろう。


(注1)
コンクリート打ち放しは「定義によって」最外層が裸のコンクリートであるから、内側で断熱していないのなら、コンクリートにたまった大量の熱が室内に伝わる。
断熱するとしても、「定義によって」外側ではなく内側を断熱してあることになる。その場合結露防止の処置が必要なはずだ(防湿や空気層の挿入といった工夫)。(詳細は専門家に確認する必要がある)。


(注1補) 「軽量気泡コンクリート」(へーベル、ALC)は、熱伝導率・容積比熱ともに、木材と同じくらいである。(普通コンクリートの熱伝導率はこれらの約10倍、容積比熱は約3倍である。)
ヒートアイランドの原因となる因子はとしては、表面の熱的性質、たとえば、放射率(=吸収率)、反射率、外側表面熱伝達率などがあるが、これらは表面の幾何学的構造に影響を受けるので、ちゃんと調べてみないとわからない。ここでは、とりあえず軽量気泡コンクリートの(外壁としての)熱的性能は木材とそれほど変わらない可能性があるとだけしておこう。一方、「軽量気泡コンクリート」の強度などの力学性能については、まだ調べていない。


(以下、更新日と更新内容)
作成2011年7月26日。

訂7月27日。

二訂8月1日 
(アントニン=レーモンドの名前を削除。レーモンドの作風は大きく変化しており、中心はむしろ戦後の木造住宅(レーモンドスタイル)。自称技術史家として反省。他の建築家についても、単純化しすぎていないかどうかを確認する必要がある。不適切なら修正の予定。コメント歓迎します。
また、注(※)を削除(上と同じく、建築家の系譜について単純化の恐れがあったため)。代わりに、(注1)を追加。そのほか複数の表現を若干修正。)

三訂8月6日~7日
(注1への補注)を追加。(注1)の一部表現を修正。原注の生き残り(※※)を割愛(レイアウトが見にくくなったため)。

2011年7月2日土曜日

仮説検定法の見直しの必要性 (Facebook過去記事の再掲)

帰無仮説が点仮説になっている単純検定はもうやめた方がよいかも。
仮説検定は、あまたある統計的決定理論の一つの方法に過ぎない。
たいていの仮説検定は、赤池・竹内の情報量基準(AIC,TIC)によるモデル選択の一つとして解釈できる。 放射線の健康影響や原子炉の事故のように、複雑な対象を研究している人は、こういった方法論のレベルまできちっと踏みこんでほしい。

詳しくは、下記を参照されたい。

TAKENAKA's Web Page「有意性検定の無意味さ」
takenaka-akio.cool.ne.jp

【原論文】Johnson, Douglas H. 1999. The Insignificance of Statistical Significance Testing. Journal of Wildlife Management 63(3):763-772.

懐中電灯のパラドックス

「スイッチを入れれば電球が点灯する」は必ずしも真ではない。なぜなら、電池が切れているかもしれないから。
「電池が切れていなくて、スイッチを入れれば電球が点灯する」も必ずしも真ではない。なぜなら、配線が切れているかもしれないから。
このように、いくら条件を増やしていっても、真なる命題には到達しない。
(懐中電灯の代わりに、もっと複雑な装置や自然現象を想像してください。)

したがって、「スイッチを入れれば電球が点灯する」が真になるためには、
「他の条件に妨げられることがなければ」という留保条件が常に必要である。

要するに、すべての命題は本質的に条件付き命題(仮言命題)である。
「電池が切れていないくて」といった当然の条件や「他の条件に妨げられることがなければ」といった留保は明示しない。

科学社会学や科学技術社会論では、科学知識の「文脈依存性」を重視するが、
社会論的な議論以前に、すでに論理学の段階で「文脈依存性」の問題は存在する。

同様に、命題の「確率」も本質的には常に「条件付き確率」である。

参考文献:『ハイデガーと認知科学』の状況論理についての節、および
     『知識と推測』(渡辺慧著、東京図書)。

読書感想メモ:Salsburg著『統計学を拓いた異才たち』および宗像・藤垣論文(2004)

最近、統計的手法の妥当性がよく分からなくなってしまったので、統計学の礎を築いた学者たち(フィッシャー、ピアソン父子、ネイマン、コルモゴロフ、ケインズ、・・・)がそもそもどのように考えていたのか、にたいへん興味がある。
そこで、Salsburg著『統計学を拓いた異才たち』(日経ビジネス文庫)を読んでみた。

研究者によって、検定のp値の解釈、確率分布の実在性、標本空間と日常との関係、といった根本問題について、見解がかなり違う。
それよりも愕然としたのは、理論家達が挌闘した問題そのものが、今では忘れ去られてしまっていることだ。
統計学があまりに科学に深く根ざしてしまったため、これらの根本問題は未解決のまま、至る所に潜んでいる。
事態はかなり深刻なようだ。

「これは科学史やSTSの格好の問題だ」と思った矢先、先行研究に戒めが書かれていた:

宗像・藤垣「専門家の主観的判断の妥当性検証と正当化に関するベイズ統計的研究」(『科学技術社会論研究』第3号、2004年)の注9:

「(ツヴァネンベルクらの)対象分野に関する徹底的な訓練を経て十分な専門知識を得て専門家と対等に議論する」とする立場は、レビューアーの意見それ自体が新たなエキスパート・ジャッジメントになる」

つまり、科学史家やSTS研究者が、統計的方法の根本問題がどのように科学を蝕んでいるかを探るべく、理論統計学の専門家と同じくらいの能力を身につけて、批判的吟味を行ったとしても、それは専門家の争いに加わっただけのことになってしまう危険がある。

それに比べると、宗像・藤垣両氏の、専門家を公共空間に引っ張り出すための統計的ツールをつくってしまおう、という戦略は大人である。
しかもここでいう公共空間には、(統計学という)expertiseを備えた非専門家がいる。
「専門家が駄目なら、市民に問おう」というのとは違う。

中道であり、王道である。

問題は、専門家が使用した論文やデータを充分に入手できるかという点だ。

それがクリアできれば、今回の原子炉事故においても、専門家の主観バイアスを定量的に表示して、オープンな場での議論に一定の基礎を与えることが可能となるであろう。

ちょっと楽観的過ぎるか?


(以上、Facebook過去記事から再掲した。)


【捕捉1】 フィッシャーのp値は、帰無仮説(間違っていて欲しい仮説)が正しいと仮定した場合について計算され、フィッシャーのもともとの使い方では、p値が充分小さければよし、大き過ぎれば実験計画をやり直せ、という意味合いで用いられた。
このp値を、対立仮説(正しくあって欲しい仮説)が正しい場合について計算したものは「検出力(検定力)」と呼ばれ、
1-第2種誤り確率
に等しい。(この値は、大きくて1に近い方がよい)。
帰無仮説に関するp値だけで検定の有効性を議論するのでは不十分で、対立仮説に関する検出力とセットで議論されなければならないというのが、イェジー・ネイマンとエゴン・ピアソンの基本的な考え方である。
「帰無仮説というのは架空の敵であり、比較検討の結果から棄却されるべきものなのである。だからネイマンによれば、得られたデータから架空の敵を倒・・・すためには、データの検出力が最大となるような比較検討をすべきだ、となるのである」(p.171)。

【捕捉2】
仮説検定に関する事態の深刻さが、第11章の174頁以降に書かれている:
「現在教えられている仮説検定の方法では・・・、ネイマンの重要な洞察 ― 架空の敵である帰無仮説を検定するためにはうまく定義された対立仮説が必要であるという洞察 ― を認識できなくなっている」。

【捕捉3】エゴン・ピアソンはイェジー・ネイマンの仮説検定理論の発端は、
分布が正規分布に従っているかどうかのχ二乗適合検定に関するものであった:
「一組のデータに対する適合度検定において、有意な結果が得られなかった場合、データが正規分布に従っていることをどうやって確信したらいいのだろうか?」
この問いが、
「検定で有意でない結果が得られたとき何が言えるのか」「ある仮説が間違いだと言えなかったとき、その仮説が正しいと結論付けることができるのか」
という問いへと一般化され、上述の検出力の理論の構築が始まるのである。

合意モデルでは環境にやさしいまちはつくれない (出典:Shinji 「サイクリングとデモクラシー」 2011.05.18 Wed.)

「持続可能なインフィル開発にとって重要な勝利」(Partnership for Sustainable Communities)

カリフォルニア州バークレー市の住民が、公共輸送機関ルート沿いに計画された98戸の高密度住宅開発の差し止めを訴えてきたが、このほど控訴裁判所は訴えを棄却する判決を下した。同市にはびこるNIMBYism(Not in my backyard,「俺の裏庭ではよしてくれ」主義)を乗り越えて環境にやさしい都市開発を進める、重要な転機になるかも[知れない]と伝えている。

バークレー市は「リベラル」(アメリカでは左寄りを意味する)な都市として知られており、環境問題に対する関心は一般に高い。一方、やはりリベラルな都市の特徴として、過去40年にわたって「合意の理想」(consensus ideal)を体現するプロセスによって、土地利用政策を実施してきたという。

ところがこれら合意づくりの場は、NIMBYismが幅を利かす場として機能してしまい、既成市街地を再開発して住宅を高密度に埋め込む(infill)計画が、周辺住民の反対によって阻まれてきた。公共輸送機関の便利な場所に高密度に開発を集める、環境にやさしい、つまりリベラルな施策が、住民合意を重視するリベラルなプロセスによって阻まれてきたわけである。

同記事は、強力な政治的リーダーシップの必要性を訴えて結んでいる。それはアメリカで今日意図される「リベラル」ではなく、古典的「リベラル」な民主主義の必要性を訴えているとも言える。


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以上、Shinji氏のホームページ 「サイクリングとデモクラシー」 , 2011.05.18 Wed., http://cycling.suizenji.boy.jp/?search=%B9%E7%B0%D5&submit=Search より引用。
Shinji氏の他の記事も秀逸ですので、ご覧になるのをお勧めします。

[]内は、筆者による捕捉。

なお、もとの英文記事は
http://www.p4sc.org/articles/all/important-victory-sustainable-infill-development